フランドル派
ハンス・ボル
Bol, Hans
1534 Mechelen-1593 Amsterdam
 ハンス・ボルは1560年にフランドルのメーヒェレン(アントワープとブリュッセルのほぼ中間)で画家組合の親方画家となった.同地は水彩画が盛んで,不透明な水彩絵の具bodycolorを用いて比較的大画面の作品が制作されていた.同地がスペインに併合されたため,ボルは1572年アントウェルペンに移住し親方画家となる.彼の作品は,遠景にも多くの人物像を描き込んだ風景画に特徴があるが,パティニールらの空想的パノラマや,ピーテル・ブリューゲルT世の自然主義的・写実的影響が強く認められる.ボルは,風景画の革新的な主導者の一人として名声を博し,カーレル・ファン・マンデルの「絵画の書」によれば,ボルは自身の作品が模倣されるようになると自身の地位を守るため,羊皮紙に水彩で複写の困難な細密画を描くようになり,その巧みさによって模倣を封じこの一連の細密風景画が彼の代表作とされるようになった.
 彼の作品はヤン・ブリューゲルT世やパウル・ブリルらフランドルの画家にも影響を及ぼしたが,ヒリス・ファン・コーニンクスローらに先んじて,1586年にいち早くアムステルダムに移住し,ピーテル・ブリューゲルらの流れを汲む,高い視点から見下ろし水平線を画面上半分に設定した世界風景画をオランダ(北部ネーデルラント)に紹介したことで,オランダ絵画,とくに風景画の発展に非常に重要な役割を果たしたとされる.例えば,ヘンドリック・アーフェルカンプやヤン・ファン・ホイエンの初期の作品には,ボルの版画の構図を踏襲しているものがある.
 彼はまた,素描にも秀で,多くが銅版画作品に仕上げられた.
フランス・フランケンU世
Francken the younger, Frans
1581 Antwerp-1642 Antwerp
ダフィート・テニールスU世
Teniers the younger, David
1610 Antwerp-1690 Brussels
 テニールスU世は,父を継いで1632年頃アントワープの画家組合の親方画家となり,その後ヤン・ブリューゲルT世の娘を娶る.若い項から非常に多作の画家であったが,初期には飾り棚にはめ込まれる小型の宗教画などフランス・フランケンに通ずる作品を得意とし,アドリアン・ブラウエルの影響を受けて,後に独自の構図を生み出した風俗画で人気を博し,1651年から南部ネーデルラントを統治していたレオポルド・ヴィルヘルム大公の宮廷画家となり,ブリッセルに移住した.テニールスは1630年代に少数の風景画を描いているが,これらはヨース・デ・モンペルU世などからの伝統を踏襲しており,多くは隠遁者の登場する山岳風景や洞窟風景画である.
オランダ/レンブラント前派
ヤーコプ・アドリアンスゾーン・バッケル
Backer, Jacob Adriaensz.
1608 Harlingen-1651 Amsterdam
 バッケルは構図と色使いに秀で,歴史画・肖像画を得意とした.20才頃レーワールデン(フリースラント)のランベルト・ヤコブスゾーンのもとへ行き,ホファールト・フリンクとともに修行したが,バッケルが25才のとき共にアムステルダムへ行き,フリンクはレンブラントの弟子となったが,バッケルはすでに画家として独立していたらしい.初期にはヤコブスゾーンのようにフランドル派の影響を受けた流麗な筆使いの作品が多いが,1630年代後半からはレンブラントの影響下にトローニーなどを描き,晩年はむしろ古典的な様式を好んだようである.
サロモン・コーニンク
Koninck, Salomon
1609 Amsterdam-1656 Amsterdam
 サロモン・コニンクは,風景画家として知られるヤコブとフィリップス・コニンク兄弟と親族で,従兄弟であった可能性が指摘されている.サロモンはアムステルダムの地でレンブラント前派のフランソワ・ヴナンやクラース・ムーヤールトらに師事し,1632年同市の画家組合の一員となり,その後,アドリアン・ファン・ニューラントの娘と結婚している.サロモンは珍しい東洋風の衣装に特に関心を示し,1630年代半ばには,織物や武具などの静物を精緻に表現する技法を達成して人気を博し,ヤン・デ・フォスをして「サロモン・コニンクは当代の最も重要な画家の一人」と詩に詠わしめている.
 サロモンはレンブラントと同世代であることから,彼の工房に弟子入りしていたとは考えがたいが,生涯を通じて彼から強い影響を受けていたことは確かである.とくにレンブラントのライデン時代からアムステルダム初期の精緻な作風を踏襲したことは繰り返し指摘されており,「ネブカドネザル王の夢を解くダニエル」などの作品によく表れている.さらに,その後のレンブラントの空間表現や光と闇の強いキアロスクーロについても,サロモンのその後の作品,例えば「ソロモンの偶像崇拝」(1644年:アムステルダム国立美術館)などに認めることが出来る.残念なことに,サロモン自身はあまりに細部に熱中し隅々まで精緻な仕上げにふけるタイプの画家であったため,レンブラントの絵画の精神的な高みには到達できなかったとされる.例えば,有名なマウリッツハイス美術館の「三賢王の礼拝」にしても,宗教画としての崇高さを表現したというよりは劇中の一場面をみている感が強い.
 サロモン・コニンクが宗教画以外の題材で得意としたものに,読書や書き物をする学者や神父,金貨を数えたり金を測ったりする老人(例えば,1654年:ボイマンス・ファン・ブーニンゲン美術館)がある.これらには書物や書類や金貨といった小物が重要な引き立て役として丁寧に描き込まれているが,これらはヘリット・ダウの影響とも思われる.
ヤーコプ・デ・ヴェット
Wet, Jacob Willemsz. de
1610頃 Haarlem-1675 Haarlem
 ヤーコプ・デ・ヴェットは,レンブラントの弟子であったヤン・デ・ヴェットとは別人と考えられている.しかしながら,ヤーコプ・デ・ヴェットの作品の多くは宗教画で,初期の作品はレンブラント前派に,1634年頃以降はレンブラントに近い様式で,情動を増幅し強い光の明暗表現で描いていることから,レンブラントの弟子であった可能性はある.晩年の作品は人物主題から離れてアルベルト・カイプのような牧歌的な風景に移って行く.
ホファールト・フリンク
Flinck, Govaert
1615 Kleve-1660 Amsterdam
 フリンクは,レンブラントの工房を独立した後,歴史画の大作と共に,次第にファン・デル・ヘルスト風の流麗な肖像画を描くようになるが,これらはアムステルダム市民の間で大変な人気を博し,1650年代前半には多くの肖像画制作の依頼があった.
ヤン・フィクトルス
Victors, Jan
1615 Amsterdam-after 1676 East Indies
 フィクトゥルスは1630年代後半のレンブラント派と,主題や様式における関連を認めることから,レンブラントに学んだ可能性はあるが,レンブラントの工房に入ったという記録は残されていない.彼は確かな観察眼を持っていたが,レンブラント様式を確実に吸収したとはいえず,むしろ彼の描く大きめの人物像は直線的で重く,衣服の細部も細かく輪郭線は明瞭に描かれ,配置も散り散りであったりするが,これは前レンブラント派からの直接の影響と考えられる.
 フィクトゥルスは厳格なカルバン主義者だったため,教義から偶像は禁止され神や天使やキリストの姿を描くことはなく,題材には旧約聖書の主題のみが用いられたという.
 彼の画業で現存するのは150点ほどであるが,年記のある1640−70年のうち,初期(40−45年)の代表作は「窓辺の若い女性」(ルーブル美術館蔵1640年 93x78cm)などである.
 中期(46−55年)とくに50年前後の数年が最も多作かつ佳作だったようで,歴史画や旧約聖書中の人物に扮した家族の肖像画のほか,この頃から牛を渡す日常風景などの農民の現実を写し込んだ風俗画も描くようになっていった.この時期の傑作は「エサウの許しを乞うヤコブ」(年 インディアナポリス美術館蔵)などである.
 晩期(1650年代中ごろ以降)は寡作となり最後の年記がある作品は1670年で作品の質は落ち,1676年を最後にアムステルダムを離れ,東インド会社の病者看護人として同地で没した.
ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト
Eeckhout, Gerbrand van den
1621 Amsterdam-1674 Amsterdam
 伝記作家ハウブラーケンによればエークハウトはレンブラントの弟子であるとともに親友でもあり,師匠の様式で描き続けたという.レンブラントのもとで修行したのは1635〜40年の間と考えられており,その後もレンブラント風の光の明暗とラストマン風の明るい色使いが支配する宗教画を描き続けるが,次第に,よりディテールを重視した作風をも使い分けるようになる.1660年代は暖かい赤褐色調の宗教画の小品群が特に優れているといわれているが,その後は再びラストマン風の作品を手がけている.エークハウトの特質は色使いと場面設定の想像力にあるといわれる.
ニコラス・マース
Maes, Nicolaes
1632 Dordrecht-1693 Amsterdam
 マースはオランダの風俗・肖像画家で,初期の1648/50-53年にはレンブラント工房で歴史画などを描くが,1653年にドルトレヒトに移住し,その頃から1660年頃までは評価の高い室内風俗画の小品を描く.やや遡って1650年の後半には肖像画を描くようになり,この頃はドルトレヒト在住のヤーコプ及びアールベルト・カイプ父子やサミュエル・ファン・ホーホストラーテンの様式を取り入れて,真面目な顔で暗い衣装を着た正面向きの人物を簡素な室内という設定で描いていた.
 1660年頃からはウ゛ァン・ダイクの影響を受けたフランドル様式の肖像画家に転身し,ハウブラーケンによれば,ヤン・メイテンスの作品を研究して,輝くような赤や青色を使った筆遣いを体得した.しかしながら,最良の作品のいくつかは以前の如く背景を簡略化して色調を押さえた作品であったという.
 その後,世を去ったファン・デル・ヘルストやファン・デン・テンペルといった肖像画家の穴を埋めるため1673年にアムステルダムに居を定め,多くの作品を生んでいった.通常は夫婦などの対作品が多かったが,子供達や家族の複数の肖像画も知られている.しかしながら,モデル・年代の特定できるものは少ない.
 顔は非常に似ていると顧客に歓迎されたという評判であるが,類型化された様式があったようである.
アブラハム・ファン・ダイク
Dyck, Abraham van
1635/6 Amsterdam-1672 Amsterdam
 アブラハム・ファン・ダイクは1650年頃レンブラントの弟子であったと考えられているが,文献的資料はない.しかしながら,残された最初の作品である1655年作「キリストの神殿奉献」がレンブラントの作品を見知っていたことを物語っている.彼は同じ時期に異なった様式,例えば,レンブラントのほかにバレント・ファブリティウスやニコラス・マースの作風で,人物像などを描く才能があった.50年代末になるとハブリエル・メツーやブレケレンカムの影響を受けた風俗画も描いている.
アールト・デ・ヘルデル
Gelder, Aert de
1645 Dordrecht-1727 Dordrecht
 アールト(またはアレント)・デ・ヘルデルはドルトレヒトの資産家の家に生まれ15歳でホーホストラーテンに師事する.その翌年,彼の助言でアムステルダムのレンブラント工房に入り,その最後の弟子となって2年間を過ごした.その後,ドルトレヒトに戻り50年以上を送ったが,画業で生計を立てる必要がなかったため,生涯の作品はわずか100点余りが確認されているだけで,年記のあるものは22点に過ぎない.
 ヘルデルの筆遣いはレンブラントの技法に習い,太く厚く塗り上げており,時には筆の柄で描入れたりもしている.しかしながら,構図は師を真似たりは殆どしていない.構図ばかりか主題や色使いについても,彼は独自の様式をとっており,これは遅れて1670年代初め頃から萌芽し始める.1680年代には,旧約聖書による主題で,より人間的な次元のものを好んで取り上げている.例えばレンブラントが殆ど扱わなかった「ユダとタマル」やエステル記の場面を,二人からせいぜい数人が登場する状況設定で心理描写より説話的側面を強調して描いている.この80年代には「ベーフェレン」のような肖像画や自画像を少なからず描いている.
 その後90年代以降になるとヘルデルの作品においても,18世紀風の衣装や髪型のみならず,洗練や微妙な色使いの変化が認められてくる.とくに明るいエメラルド色から暗い緑色が現れてくるが,この時期になってようやくレンブラント的色使いからやや離れてくることになる.その後1715年頃から信仰心に基づいて「キリストの受難」連作を手がけてゆく.
 いずれにしても,ヘルデルは,レンブラント工房から巣立ったフリンクやボルが時流のフランドル風の優雅な肖像画に進んだり,ダウらのように細密様式に移行したりはせず,レンブラントの描画技法を踏襲しつつ,独自の審美眼により主題を選択し想像力と色使いで自身の道を歩んだのである.そこには,あるいは頽廃的な美学が見出されるかもしれない.
オランダ/その他
ミヒール・ヤンスゾーン・ファン・ミーレフェルト
Mierevelt, Michiel Jansz. van
1567 Delft-1641 Delft
 ミヒール・ファン・ミーレフェルトは,肖像の主を媚びずにありのままを記録する様式で生前から名声を博した肖像画家で,国内外の上流階級の顧客の中でも,とくにオラニエ家の公式肖像画家として1607年からおびただしい数の肖像画を残している.これらは,贈答用のほか,市民階級の支持者たちがこぞって買い求めて家々に掲げたこともあって,底辺での需要も高く,作品は1000点以上存在したといわれ,それらの多くは工房の助手たちの作業分担によって制作されていた.工房作でも主要な注文においては,ミーレフェルト自身がおもに頭部の重要な部分を描くことが多かったが,彼の手がどの程度加わっているかによって,そして,胸像から全身像までの画面のサイズによって,価格のランク付けがなされていた.
ヤン・ファン・ホイエン
Goyen, Jan Josefsz. van
1596 Leiden-1656 The Hague
 ヤン・ファン・ホイエンは,今日,最も有名なオランダ風景画家の一人で,1617年頃に1年間ハーレムで6才年上のエサイアス・ファン・デ・フェルデのもとで学び,その後の方向に大きな影響を受けた.その後1632年に首都ハーグに移り,1640年頃には同地の聖ルカ画家組合の組合長を務め,油彩1200点以上,素描800点以上を制作するが,当時の売却単価は比較的低かった.ホイエンは富と名声を求めた野心家であったが,チューリップ相場などの失敗で多額の負債を残している.
 ヤン・ファン・ホイエンの初期(1620-26年)の作品(署名様式:I.V.GOIEN )は明らかにエサイアス・ファン・デ・フェルデの影響を示し,一部はフランドルの伝統による円形画面の対作品として仕上げられているが,それ以外(ベックによれば33点以上)はかなり横長の画面に村や海岸の情景を描き,ファン・デ・フェルデと違って襲撃や戦闘の場面は描いていない.多くの人々を登場させ,高い木を配して構図を分割し,近景から遠景への奥行きを感じさせる.その後(1630年から署名様式:VGOYEN,大作は時にJ.VGOYEN [VGは連字],但し1628年から通常はモノグラムVGを使用),ハーレムのピーテル・デ・モレイン,サロモン・ファン・ライスダール,ピーテル・ファン・ザントフォールトらとともにオランダの風物をより自然に近い色彩で描く単色調の写実的風景画を目指すようになり,1630年代を通じて褐色と緑色調で砂地や河を表現し,対角線で奥行きを持たせる構図をとっている.30年代末から調和と統一のとれた作品を描き始め,微妙に変化を与えた銀灰色の色調が優位となるが,1640年代には簡素な黄金色を帯びた褐色調となり,河に描かれた帆船は背景から前景へと位置を移し,河岸は隅の方へ後退してくる.この頃から対角線の構図から水平の構図も取り入れるようになり(特に遠景),空を覆う雲は陰の効果で光の対比を生む.描かれた都市には記念碑的な建物がしばしば登場している.40年代後半には単調な褐色が支配し,1650年代には再びより自然な色彩に戻り,とくに海景画が傑出して行く.
サロモン・ファン・ライスダール(ロイスダール)
Ruysdael, Salomon van
1600/3 Naarden-1670 Haarlem
 サロモン・ファン・ライスダールは,オランダ絵画黄金期の風景画家で,1623年にハーレムの画家組合に入会し生涯その地に居を構え,初期にはエサイアス・ファン・デ・フェルデ,次いでピーテル・デ・モレインの影響を受け,1630年代にはヤン・ファン・ホイエンとともに単色調の河の風景という独自の画風を確立する.この頃の様式はホイエンと区別しがたいが,微妙な緑,黄,灰色を寒色調に用いながらより細かい筆致で描いている.ホイエンらと異なり,サロモンは素描を残さず,直接デッサンの上に作品を仕上げていったらしい.二重対角線の構図で描かれた渡し船や漁夫のいる河辺の風景が典型的である.1640年代には甥のヤーコプ・ファン・ライスダールの影響を受けてか上下方向の構図が強調され,色調が鮮やかさを増してくる.マックス・フリードレンデルがいみじくも述べたように,ホイエンが嵐の前の風景とすればサロモンは雨上がりの新鮮な風と大気を感じさせる,といわれる所以である.
アルベルト・カイプ
Cuyp, Aelbert
1620 Dordrecht-1691 Dordrecht
 アールベルト・カイプは肖像・風景画家ヤーコプ・ヘリッツゾーン・カイプの息子で,多様なジャンルの絵画を残したが,今日ではオランダ風景画の巨匠の一人とみなされている.彼は,オランダ風景画の題材にイタリア風の光の効果を導入し,「黄金の雰囲気」をたたえた作品は,ターナーやコンスタブルらの活躍した18世紀英国において高い評価を得た.カイプは,ドルトレヒトから居を移さなかったが,河沿いにホラント,ユトレヒト州を旅行し,多くのスケッチを残している.
 カイプの初期(1639- 1645年頃)の作品には,ヨース・ド・モンペルU世, ヘルキュレス・セーヘルス, エサイアス・ファン・デ・フェルデらへの関心が認められ,次第にヤン・ファン・ホイエン, サロモン・ファン・ライスダールやユトレヒトのヘルマン・ザフトレーウ゛ェンU世らの影響を受けるようになるが,その中においてもカイプは常に強く明るい光のコントラストを追い求めている.
 カイプは1645年頃から親イタリア派風景画家であるヤン・ボトの強い影響を受け,点景として現れる羊飼いや家畜たちは次第にクローズアップされてゆくようになる.
ヤーコプ・ファン・ライスダール(ロイスダール)
Ruisdael, Jacob van
1628/9 Haarlem-1682 Amsterdam
ヤーコプ・ファン・ライスダールは17世紀オランダにおける最大の風景画家とされ,ステコーはライスダールを最も偉大なforest painterと呼んでいる.鬱蒼とした森の風景は,ヤン・ブリューゲルT世やそれに続くヒリス・ファン・コーニンクスロー,アレクサンドル・ケイリンクスらフランドル派の流れを汲む画家たちが得意としたが,ステコーに従えばそれらは装飾的で大袈裟にも見える.ハールレムの画家コルネリス・フロームは森をテーマにした作品を制作したが,1630年頃からの作品における木々の構図的配置がヤーコプ・ファン・ライスダールの着想に影響を及ぼしたとされる.
ヤーコプの森の風景は,1640年代から存在するが深い森の中というよりは木々の群生を対角線様式で描く構図が主流で,1650年頃のドイツ国境付近ベントハイム城近郊への旅行後,その様式は壮大で劇的な印象を与えるモニュメンタリズムを呈するようになり,ことに1650年代前半(ハーレム時代の後期)の森の風景では,画面の広い範囲を占める樫の巨木とそれに調和し従属するような木々を描くようになる.その後1656年頃アムステルダムに移り,1660年代にもこのテーマを再び取り上げているが,より静謐で崇高な自然を無理なく描き出している.70年代以降においては小画面により精緻な筆致でより開けた構図に木々もこじんまりとなってゆく.
ヘリット・ベルクヘイデ
Berckheyde, Gerrit Adriaensz.
1638 Haarlem-1698 Haarlem
 ヘリット・ベルクヘイデは,風俗人物画や教会内部画で知られる兄ヨプ(1630-93)の弟子で,兄同様,1660年にハーレムの画家組合の親方画家となっている.彼らはハーレム市で同居していたことから恐らく工房も共にしていたと思われるが,制作過程での相互の関与は明らかではない.ヘリットは都市景観画に秀で,その点で古典主義的とされるが,広場の記念碑的建築物を好んだ点が,運河沿いの景観を好んだ細密表現のヤン・ファン・デル・ヘイデンと区別される.ヘリットによるオランダの景観は地誌的に極めて正確で,光線を利用した明暗の対比が構図を引き締めるとともに暖かみある雰囲気を醸し出している.
 ヘリットは,親イタリア派的な,廃墟,田園,狩猟などの風景を少数ながら残している.
ヤン・ファン・ケッセル
Kessel, Jan van
1641 Amsterdam-1680 Amsterdam
 ヤン・ファン・ケッセルは,恐らくヤーコプ・ファン・ライスダールの弟子で師の流儀で風景画を描いたが,友人でケッセルの次男の名付け親でもあるマインデルト・ホッベマの水車や村の風景,同時代のアラート・ファン・エーヴェルディンゲンの滝,ヤン・ウェイナントの森,ヤン・ファン・デ・カペレの冬景色にも着想を求めたという.なかでも,都市景観とパノラマ風景画(「ハーレム近郊の漂白地」画布115.5x130.5cm,ブリュッセル王立美術館蔵など)などが有名である.彼の作品は120点以上が確認され,この45点が公的機関にあり,ケッセル作とされていたのは30点,ケッセルとして展示されていたのは10点程であったという.
 17世紀後半の売立会では,ケッセルの作品はライスダールやファン・デル・ヘイデンとほぼ同等の価格で取り引きされたらしい.1721年のハウブラーケンの著書では,ケッセルを「オランダの風景を実物に基づいて写生してから,いきいきと自然に,そして細部に至るまで描きあげる」巨匠と記載していた.しかしながら,その後は美術史家には忘れ去られ,画商たちはケッセルが署名した作品でさえも,ライスダールらのそれらしい署名を入れて市場に流通させた.1835年の有名なスミスの著書では,ヤーコプ・ファン・ライスダールとホッベマの各の模倣者の項で紹介されているものの,ケッセルは「彼らの流儀と様式をかなり効果的に用いているがあまり似ていない」と記載されている.1911年のデ・フロートにいたっては,「ケッセルは多くの点でライスダールのパノラマ,滝,都市景観画の盲目的模倣者で,細部はスケッチ的であり明暗の対比が強すぎる」と記しており,彼の魅力的な作品でさえもそれが忠実な模倣たるが故,とこき下ろしている.1966年の著書でステコーも「ライスダールのパノラマは一部の画家に模倣されたが,例えばケッセルのような盲目的模倣者については割愛する」とデ・フロートを引用しているが,脚注で「出来が悪くて落胆させられたライスダールの作品を理由もなくケッセルの作としてしまう傾向があるのは警告に値する.確かにケッセルの作品にはこれらの作品に勝るとも劣らないものが存在する」という趣旨の言及がある.戻って20世紀初頭の書かれたブレディウスのエッセイでは,ケッセルを「ライスダールの真の後継者」とし,とくにハーレムピェ/ハーレミェ(ハーレムのパノラマ風風景)についてはライスダール自身の作と遜色がないとしている.1928年のローゼンベルクのライスダール・カタログでは,ケッセルに関する言及はなかったものの,ケッセルの優れた作品が再確認されたことは重要である.1969年のボルの記述によると,17世紀当時の慣習では画家は同僚と共に見習い合うのが認められており,最終的に美しい絵画を制作するのが目標とされたので,ケッセルの作品に高い独自性を求めることよりもそれが美しいという事実の方が重要であるという.この考え方は「レンブラント工房」やレンブラント周辺画家の再評価とも通ずるところがある.最近では1984年の総説でハークは模倣者という表現を退け,「ライスダール,フィリップ・コニンク,ホッベマといった偉大な風景画家の陰に隠れてきたが,ケッセルの作品は個性的で共感を喚起する質の高さを有している」と賞賛している.

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ピーテル・ラストマン
Lastman, Pieter
1583 Amsterdam-1633 Amsterdam
ヤーコプ・ピナス
Pynas, Jacob Symonsz.
1592/3 Amsterdam-活動1650? Delft?
 アストリッド・テュンペルによれば,ヤコプ・ピナスはアダム・エルスハイマーらの影響を受け,暖かい統一のとれた褐色調の支配する画面に聖書や神話を題材にしたレンブラント前派的作品を残している.後にレンブラントが初期の作品にこの様式を取り入れているがピナスの弟子になったという証拠はない.
 レンブラント前派の中でピナスだけは,マニエリズムに由来する人物群を主とする作品と,人物は点景で風景を主とするエルスハイマー風の作品とを描き分けている.初期の作品では人物の輪郭は明瞭で衣の襞は強調され,1620年頃以降の作品では陰影がより強調されて,人物と風景は一体化し,人物の構図もより図式的となってくる.この好例として,「シュネムの女のもとへ下僕を遣わす預言者エリシャ」(?1621年, Muiden国立美術館)が挙げられている.
レンブラント・ファン・レイン
Rembrandt Harmensz van Rijn
1606 Leiden-1669 Amsterdam
オランダ/レンブラント周辺画家