本作品は胸像であるが,頭部の洗練された表現技法は評価に値し,この点から見ても工房の並の模写作品ではなく,ミーレフェルトの署名が認められないことと併せて,工房との共同制作とするのが妥当かもしれない.工房の中には優れた弟子(ピーテル[1596-1623]とヤン[1604-33]の二人の息子も含めて)いたし,顔はミーレフェルトの手が加わっている可能性もあろう.また,彼の影響を受けたヤン・ファン・ラベステインも1612年にフレデリック・ヘンドリックの肖像を描いている(オランダ王室コレクション)が,これも比較検討する必要がある.
この作品のオリジナルと考えられるミーレフェルトの3/4身像の610年(26歳)頃の作品がデルフトのプリニセンホフ博物館Stedelijk Museum het Prinsenhof, Delft.やDuke of Buccleuch and Queensberryのコレクションにある.
M. J. van Miereveld 58 x 49,5 cm c.1610The Hague, Foundation of Historical Collections of the House of Orange-Nassau:
襟飾りのついた甲冑姿は,ミレーフェルト工房の決まったフォーマットである.
Michiel Jansz. Van Mierevelt Ca. 1632, doek, Haags Historisch Museum Den
Haag.
オレンジ色の大綬がオラニエ(オレンジ)家を示し,これに描かれた草花はりんどうなどである.肖像の主の容貌は,後に公式肖像画家の地位を継承したヘリット・ファン・ホントホルストが描いた「フレデリック・ヘンドリックとアマーリア・フォン・ソルムス」(マウリッツハイス美術館)や「フレデリック・ヘンドリックとアマーリア・フォン・ソルムスと3人の王女たち」(1647年 アムステルダム国立美術館;没後の完成)
に描かれた初老のフレデリック・ヘンドリックの若かりし頃,恐らく30代頃の皇太子の肖像と容易に見て取れよう.彼の肖像画は多く,ミーレフェルト作やホントホルスト作がアムステルダム国立美術館に,ヴァン・ダイク作がプラド美術館にある.
オラニエ家は,1544年にドイツのナッソウ-ディレンブルグ伯の長子である沈黙公ヴィレムT世(1533-84)
が世襲し,オラニエ-ナッソウ家が成立することとなった.彼は,ハプスブルグ家のスペイン王フェリペU世から北部ネーデルラント(ホラント,ゼーラント,ユトレヒト州など)の総督に任ぜられたが,スペインの圧政のもとで自由とプロテスタント信奉を旗印に1568年勃発した80年戦争で,主君に謀反して戦いを率いた.1579年のユトレヒト同盟でネーデルラントは南北に分裂し,1581年,北部7州はネーデルラント共和国として独立を宣言したが,彼が暗殺されると同盟は連邦議会を組織し,ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト
が初代の主席代表に任命され政治的指導者を務めるようになり,翌年,ヴィレムT世の息子マウリッツ公(1567-1625)
c. 1625 Oil on panel, 220 x 140 cm Rijksmuseum, Amsterdam
が即位し,他州の総督と共和国軍総司令官をも務めスペインを随所でうち破った.彼は根っからの軍人で天才的戦術家であったといわれ,とくに建築に関心を示したが,その没後,1625年に腹違いの弟フレデリック・ヘンドリック(1584-1647)が後を継いで総督になった.
彼は,とくにルーベンス,ヴァン・ダイク,ヤン・ブリューゲルT世,ダニエル・セーヘルスなどのフランドル絵画に傾倒し,芸術のパトロンとして,アブラハム・ブルマールト,ヘリット・ファン・ホントホルスト,コルネリス・ファン・プーレンブルフらの親イタリア派やレンブラント,ヤン・リーフェンス,エサイアス・ファン・デ・ヴェルデらのオランダ写実派によるオランダ絵画の発展に寄与することになる.また,妃のアマーリア・フォン・ソルムスのために1645年,ハイス・テン・ボッシュ宮を造営した.
なお,その子ウィレムU世
はイギリスから妃をめとり,さらにその子ウィリアムV世
はイギリス国王となった.